策展訊息 :
台北駐日經濟文化代表處台灣文化中心 歲月之旅–張照堂攝影展
歳月の旅–張 照堂写真展 ( 2015 / 9 / 1 – 10 / 30 )
レセプション : 2015 / 9 / 1 (火) 14 : 00 – 15 : 00
特別講演会 : 2015 / 9 / 1 (火) 15 : 00 – 16 : 30
司会 : 菅沼比呂志(ガーディアン・ガーデン/プランニング・ディレクター)
講師 : 瀬戸正人(写真家), 張照堂(写真家 / 台南芸術大学名誉教授), 沈昭良(本展キュレーター / 写真家)
開館時間: 10:00-17:00(土、日曜 & 祝日休館)
会場 : 台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-1-12 虎ノ門ビル2階
http://jp.taiwan.culture.tw/content_32.html
2013年9月,台北市立美術館為張照堂舉辦了名為「歲月照堂」的大型回顧展,展覽整體採編年式架構,分別為「少年心影」(1959-1961)、「存在告白」(1962-1965)、「裝置 / 塗鴉 / 原作」(1966-1986)、「社會記憶 / 內心風景」(1970-2005)、「數位發聲」(2005-2013)與「歲月容顏」(2005-2013)等六個主題,內容除了放大與輸出的攝影作品400餘件,也包括8部紀錄影片、裝置、拼貼、攝影原作、編輯刊物、繪本、手稿、歷年展出文宣等等,橫跨張照堂過去所涉略的電影、紀錄片、攝影、現代藝術、文學、劇場、出版等領域。
展出期間,除了吸引成千上百各個世代,不同領域的觀眾留連駐足,更引發相關的學術著述與研究討論,展出規模之全面,影響之深遠,可說是國內攝影藝術圈有史以來所僅見。不僅完整呈現張照堂的影像風格與美學品味,更確立其在台灣攝影與跨領域影像發展脈絡上,承先啟後的卓越成就與崇高地位。日本著述家暨愛知三年展總策展人港千尋,即曾在現代美術學報中坦言:「張照堂不只是一位傑出的攝影家,更是每個國家只可能僅會出現一兩位的那種藝術家。」
張照堂,1943年出生於台北縣板橋鎮(現新北市板橋區),父親為執業醫生,兄弟姊妹共七人排行第五,初中三年級時,向大哥借了一台Aires Automat 120相機把玩,卻也因此開啟了他不凡的影像人生。成功高中時期,參加攝影社團受教於鄭桑溪,其後雖進入台灣大學土木工程系就讀,反倒積極參與藝文活動,廣泛閱讀現代、存在主義文學,並開始觀念性的攝影創作。
大學畢業後分發至離島澎湖服役,退伍後的1965年與鄭桑溪共同發表「現代攝影雙人展」,迥異於當時唯美沙龍與社會寫實的現代視覺語言,自然招來當時傳統攝影圈頹廢消極的惡評,但卻也引起美術與文學界的鼓舞與關注。1968年張照堂進入電視台,從事新聞採訪、專題製作與紀錄片拍攝。1974年也曾瀟灑舉辦了「攝影告別展」。其後二十餘年,他全面性參與紀錄片與電影劇情片的拍攝製作,1997年就任國立台南藝術學院(現國立台南藝術大學)音像紀錄研究所教授,傳道授業,提攜後進不遺餘力。1998年籌劃首屆台灣國際紀錄片雙年展。生涯迄今獲頒有金鐘獎、金馬獎、國家文藝獎及象徵最高榮譽的行政院文化獎等重要獎項。
出生及成長在台灣的張照堂,歷經日本殖民、國府統治、黨外運動、解除戒嚴及總統直選等時期,自初中三年級的接觸相機以來,作品從不為針對特定議題的計畫性拍攝,反而幾乎都是工作之餘的隨性抓取,卻也因此定調了獨特的攝影風格,同時據已清晰回應伴隨他的歲月和時代。誠如評論家郭力昕所言:「張照堂成長於一個極度壓抑、苦悶的年代,並且在這樣的時代氛圍裡,走過了他創作的精華歲月。臺灣的這個時代背景,政治空氣是高壓、肅殺的,攝影文化是空白或貧乏的,張照堂的攝影藝術,就在這樣的政治與文化悶局裡,迸出了一個獨醒的、清越的高音。」
張照堂的作品,除了初中時期作品所展露的直觀純粹,大學時期則因喜愛接觸現代文學與藝術,面對當時台灣社會的政治高壓與思想箝制,攝影頓時也成為他抒發內心寂寥與撫慰外在荒蕪的材料,此時期那些塗抹的白臉、頭套塑膠袋和無頭身影的作品,在日後更被視為台灣現代攝影語法轉向的重要實踐。退伍後,進入媒體工作的張照堂,持續透過觀景窗,緊貼著台灣社會的氛圍與脈動,在城市、巷弄、荒郊和鄉野間,大量超現實語境與荒謬劇場式的作品,引人緘默也發人省思。其後,順應數位時代的來臨,張照堂援用了科技的便捷,將其轉化為攝影表現的另類可能,先前曾在「歲月照堂」回顧展中,陳列展示的拼組作品<夢遊-遠行之前>與<台灣-核災之後>兩系列實驗性組作,則是2005年進入數位時代後持續進行的創作類型。
綜合過去對於張照堂作品相關論述與研究的歸納,普遍將其創作風格,定調為抵抗當時台灣所處高壓統治與社會處境的精神性衍生,透過其所獨具的攝影眼,心理的,身體的,尋常的,淡然的,直覺的,進一步提出對於現狀的某種超脫與預知。然而,對照張照堂初中時期所拍攝的「少年心影」系列作品,其中所大量穩定展現,有別於那個年齡世代應有的尋找與凝視,很顯然的,他的成就,應不只是時代的重壓與凝鍊所積累而成,有相當確定的一部分,是那一股自幼在他身體血液裏,早已循環流淌的豐富素質與內斂情感。
此次受邀在台灣文化中心展出的23件作品,主要是挑選張照堂在1970-1990年間所拍攝,聚焦在社會記憶與內心風景,同時也回應本展”歲月”與”行旅”意象的精要式集結,除了作品本身的時間跨度,足跡也行旅式的遍及基隆、台北、桃園、苗栗、新竹、嘉義、屏東、宜蘭、花蓮和澎湖等地。其中,望安島上的少女容顏,阿里山上的日出遠眺,鼻頭角港邊的餘暉小憩,算命看板前的晃動身影,水岸邊的駐足凝望,車廂理的沉睡舒醒…。時而匆忙,時而停歇,時而展望,時而掩面,時而奮起,時而喘息。讓我們在人物近景與環境身影的視覺導引下,橫向與縱向的氛圍轉折中,重返那個蒼茫年代,重新經歷那個靜謐時空,領略張照堂在漫長的歲月行旅中,不斷遺落卻又不斷拾起的無盡視野與動人話語。 文 / 沈昭良
2013年9月、台北市立美術館で、張照堂(ジャン・ジャオタン)の大型回顧展「歳月/照堂」が行われた。展覧会は年代別の構成を取り、「少年の心」(1959-1961)、「存在の告白」(1962-1965)、「インスタレーション / グラフィティ / オリジナルプリント」(1966-1986)、「社会の記憶 / 心象風景」(1970-2005)、「デジタルでの発信」(2005-2013)、および「歳月の表情」(2005-2013)という六つのテーマに沿って、大きく引き延ばされた400点余の写真作品のほか、8本のドキュメンタリー映像作品、インスタレーション、コラージュ、オリジナルプリント、編集に関わった印刷物や絵本、手書き原稿、過去の展覧会のチラシやポスターなどが展示され、これまでに張照堂が関わって来た、映画、ドキュメンタリー映画、写真、現代美術、文学、舞台、出版など様々な領域を横断する展覧会となった。
会期中は、おびただしい数のあらゆる世代の観客だけでなく、様々な領域で活動する数多くの観客が足を運び、ここから学術論文や研究討論が生まれた。展示規模は全面的であり、展覧会が社会に与えた影響は計り知れず、台湾の写真芸術史上においても稀な事件であったと言ってよい。展示は、張照堂の写真スタイルやその美学を完全な形で伝えていたのみならず、台湾の写真や領域横断的な映像の歩みにおいて、張が先人の成し遂げたものをさらに刷新していく卓越した存在であることを強く印象づけた。日本の写真家で愛知トリエンナーレ2016の芸術監督を務める港千尋は、(台北市立美術館発行の学術誌)現代美術学報において、「張照堂は、傑出した写真家というだけでなく、いずれの国にも、ひとりかふたり出て来るか、というような芸術家である。」と述べている。
張照堂は、1943年に台北県板橋鎮(現在の新北市板橋区)に、医者である父のもとに、七人兄弟の五番目として生まれた。中学三年生の時、兄にアイレス・オートマット120というカメラを借りて遊び始めたことが、彼を、後の非凡な映像人としての人生へと導くことになった。成功高校に通っていた頃には、写真サークルに参加して鄭桑溪(ジェン・サンシー)に師事し、その後台湾大学土木工程学部に入学したものの、専門の勉強よりも芸術文化活動にいそしみ、近代文学や存在主義文学を読みあさり、コンセプチュアルな写真制作を行い始めている。
大学を卒業した張照堂は兵役に就き、離島の澎湖に配属された。退役後の1965年には鄭桑溪とともに「現代写真雙人展」を行い、当時の唯美的サロン写真や社会リアリズム的な近代視覚言語とはまったく異なる作品を発表した。当然のことながら、当時の伝統的な写真界においてはデカダンで消極的だという悪評を招いたが、美術界や文学界からは激励され、注目を集めることとなった。1968年に張はテレビ局に入社、ニュース取材のほか、特別番組やドキュメンタリー映画の撮影に従事した。また、1974年にも、曾瀟灑(ゼン・シャオリー)と「撮影(写真)告別展」を行っている。二十数年ほど、精力的にドキュメンタリー映画やドラマ映画の撮影に関わった張は、1997年には国立台南芸術学院(現・国立台南芸術大学)の音楽映像ドキュメンタリー研究所の教授となり、後続の育成に力を注いだ。1998年には、第1回台湾国際ドキュメンタリービエンナーレの準備に関わっている。これまでに、金鐘賞、金馬賞、国家文芸賞および台湾にて最高栄誉とされる行政院文化賞などの重要な賞を受賞している。
台湾で生まれ育った張照堂は、日本の植民地支配、国民党による統治、党外運動(訳注:民進党誕生以前の台湾における民主化運動)、戒厳令解除や、総統直接選挙などの時代を生き抜いてきた。初めてカメラに触った中学校3年生の頃から、作品は特定のテーマに沿って計画的に撮影されてきたわけではないが、むしろ仕事のあいまをぬって気ままに撮り続けてきたことが却って、独特の写真スタイルをそこに定着させ、ともに歩んだ歳月と時代とを、はっきり映し出すようになった。これについて、評論家郭力昕(グォ・リーシー)は次のように述べている。「張照堂は極度に抑圧された苦悶の時代に生まれ育ち、そのような時代の雰囲気の中で最も優れた作品を生み出した。この時代の台湾の政治的空気は高圧的・粛殺的であり、写真文化は空白でないとしても非常に貧しいものであった。張照堂の写真芸術はそんな政治・文化的に鬱々とした状況にあって、孤高の澄み切った高音を響かせたのである。」
張照堂の作品は、中学校時代には直感的な純粋さをみせていたが、大学時代には、彼の近代文学や芸術への傾倒のために、当時の台湾社会の高圧的な政治や思想統制へと向き合い、内面の寂寥を表現し、荒寥とした外界への慰めとなった。この時期発表された白塗りの顔や、頭に被ったビニール袋、頭のない身体を写した作品などは、その後ますます、台湾近代写真の語法を転換させる重要な実践であったと見なされるようになった。兵役からの退役後マスコミでの仕事を始めた張照堂は、それ以降もファインダーをとおして、台湾社会の雰囲気や脈動に切迫する大量のシュルレアリスティックで不条理劇的な作品を、都市や路地、荒れた郊外や農村で撮影し続け、観る者を沈黙に導き、内省を促した。その後張はデジタル時代の到来に順応し、そのハイテクの利便性を用いて、写真表現の新しい可能性を追い求めた。先の「歳月照堂」回顧展で展示された《夢遊—遠行の前》と《台湾—原発事故後》のふたつの実験作品シリーズは、2005年にデジタルカメラを用い始めて以降、張がずっと取り組んでいるものである。
これまでの張照堂の作品についての論文や研究には、その作品スタイルを、当時の台湾の高圧的な統治や社会状況に身を置くことで生まれる精神性との関連について語るものが多い。独自の撮影眼をとおした、心理的で身体的、さらりとして飄々とした直感的な表現だと捉え、さらには現状に対するある種の超越を提言する予言だとする。しかしながら、張照堂が中学校時代に撮った「少年の心」シリーズの、大量で安定した表現と比べてみると、このくらいの年の少年が当たり前に持っている探究心や対象の凝視とは、明らかに異なっていることがわかる。彼が成し遂げたことは、時代の重圧と精錬の蓄積のみによるものとは言えないだろう。そこには幼少時より彼の身体の血の中に循環していた写真家としての豊かな素質と、含蓄に富む情感が、必ず影響していたはずだと思うのだ。
今回台湾文化センターで展示する23点の作品は、張照堂が1970年から1990年のあいだに撮影したものを中心に選び、社会の記憶と心象風景に焦点を当てた。これらは同時に、先に述べた展覧会の「歲月」と「旅」の意象から精選したものでもあり、作品がくぐり抜けて来た長い時間だけでなく、作家が基隆や台北、桃園、苗栗、新竹、嘉義、屏東、宜蘭、花蓮や澎湖などの各地を旅した足跡を辿るものともなっている。望安島の少女の表情や、遠くに臨む阿里山の日の出,鼻頭角港の傍で夕焼けを眺めながらのひとやすみ、占いの看板の前で揺れ動く人影、水辺で足をとめて遠くを見つめる人、電車の中で眠ったり気持ちよく目覚めたりする人々…。時にあわただしく、時にゆったりと、時に遠くを眺め、時に顔を隠し、時に奮起し、時に息を荒くする。我々は、近景の人物と周囲の物影という視覚に導かれるように、水平や垂直の雰囲気の変化の中で、あの蒼茫たる時代に立ち戻り、あの静謐な時空を再び体験する。張照堂の長い歳月をかけた旅の中で、絶え間なく置き去りにされ、また絶え間なく掬い上げられてきた無限の視野と、心を動かす物語を味わいながら。
テキスト/ 沈昭良(シェン・ジャオリャン)
同時也有1部Youtube影片,追蹤數超過46萬的網紅Genの本棚食堂,也在其Youtube影片中提到,私が仕事を終えて事務所から出た頃、空には深い藍色をした夜が、焼けるような夕陽を飲み込もうとする姿があった。その光景はこの世の物とは思えない程壮大で、美しく、悲しさに満ちていた。 それは私にとって掛け替えのない記憶を突然に呼び起こした。私がまだ少年と呼べる歳の頃に想った人の古い記憶だ。彼女へ抱いた...
鼓や 淡路島 在 Genの本棚食堂 Youtube 的最佳貼文
私が仕事を終えて事務所から出た頃、空には深い藍色をした夜が、焼けるような夕陽を飲み込もうとする姿があった。その光景はこの世の物とは思えない程壮大で、美しく、悲しさに満ちていた。
それは私にとって掛け替えのない記憶を突然に呼び起こした。私がまだ少年と呼べる歳の頃に想った人の古い記憶だ。彼女へ抱いた感情は恋よりもずっと濃く、愛よりもずっと淡かった。
彼女の柔らかく細い髪が、透き通るグレーの虹彩が、小麦色の滑らかな肌が、特別な力を感じる声が、海馬の奥底から次々に湧きだし、私の全てを満たしていく。
彼女は言った。
『私は確かにあなたの前に存在しているけれど、大半の人にとってはいないも同じ』
『幸せって掴むものじゃなくて気づくものだと思う。そうあって欲しいと私は思う』
『あなたの詩を書いてみたけれど、ひどい出来ね』
『私にはまだ恋愛ってものが分からない。でも、ちゃんとそれなりの幸せは感じてるの』
『いつか、必ず会える。そしたらまた、春風の気持ち良い野原でも作ってリルケの話でもしながら、すみれのサンドウィッチを食べようよ』
目を細め、静かな笑みを見せながら、彼女はいつもそう言うのだ。その顔は私の経験してきた何よりも愛おしかった。
それなのになぜ、忘れてしまったのだろうか。
あれほど大切に思っていた人の事をどうして数十年何も思い出さずにいられたのか。
一体いつから。
その起点を思い出す事はできなかった。まるで夢と現実の境界線のように。
彼女を忘れたこれまでの人生は、本当に自分の人生だったのだろうか。そう考えた時、私の脳裏には、これまで両眼で見てきた光景の数々がフラッシュバックした。
アルバイトをしていた三軒茶屋の小さなレコードショップとその主人。
25の時、共に事務所を立ち上げ、30年以上仕事をしてきた同僚の岡島。
素朴で温かいチャペルでの挙式。真っ白なドレスに身を包んだ妻。
三鷹に買った、小さなセコイア並木の見えるマンション。
自分の腕の中で幸せそうな寝息を吐く娘の、溶けてなくなってしまいそうな頬。
これは誰の人生だ?
私はその場に立ち尽くし、ひどく混乱した。古びた心臓の鼓動は早まり、渇ききった額には汗が滲む。
「──さん。宮本さん」
部下の津島が声をかけてくれるまで、私は瞬きさえすることができなかった。
「大丈夫ですか?その、顔色があまりよくないみたいで」
彼は私の顔を覗き込むように言った。
「あぁ。大丈夫だよ。ただ、すまないんだが笹山くんとの食事はキャンセルさせてくれないかな。少し気分が悪い」
「分かりました。笹山さんには伝えておきます。またいつでも飲めますから」
「申し訳ないね」
「私が言うのも何ですけど、本当に気にしないでください。とにかく、今日は家に帰ってゆっくり休んでください」
「ありがとう」
私がそう言うと、彼は後輩の小林を連れて飲食街の方へ消えていった。
私は自分の立つ場所の辺りを見回した。目に映るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿と山脈のように連なり、赤く点滅する高層ビル群の陰だった。それは水晶体が白濁する程見慣れた光景のはずだった。
ここはどこだろうか。
私はいまどこに立っている。
一体、どこへ向かえばいい。
時間が経てば経つほど、思考はかき混ぜられ、気分が悪くなる。そんな中、溢れ出る記憶の中のとある言葉だけが、私を少しばかり安心させた。
『どこにも行き場がなくて、どうしようもなくなったら私の所に来なさい。あなたが望めば必ずここへ来られるから』
それはすみれさんの言葉だった。当時、身の裂けるような思いをしていた私に掛けてくれた何よりも温かい言葉だった。
私は目元を強く押さえて深く息を吸い、足を前へ踏み出した。
繁華街の大通りから一本裏手に入ると、雑居ビルに囲まれた暗い路地がある。そのビルの間の道とは言えない道へ入り込み、眠る浮浪者を跨ぎながら、行けるところまで進んでいく。
雑居ビルの隙間から見える空は、完全な夜へと変わっていたが、未だ太陽は煌々と光っている。
それはあまりに不自然で、奇妙な光景だった。
そしてそれを、私は蘇った記憶の中で目にしていた。
その場所は私がもといた現実の世界ではない。
「君の作った世界だ」
私は禍々しい太陽へ向かって言った。
ここにいる人もビルも、塵も光も、何もかも、君が作った世界だ。
この空は、彼女が初めて作った世界の空だ。今にも霧のように消えて無くなってしまいそうな彼女は、書斎の小さな窓を通してこの空をぼんやりと見ていた。
『この家はあなたの世界にいた頃暮らしていた家なの。この書斎でいつも母が扉の鍵を開けてくれるのを待ってた。母の事も、この家の事も嫌で嫌で仕方なかったのに、結局ここに帰って来る。自分の存在を確かめるにはどうしてもこの場所が必要なの。ほんと皮肉だよね』
それから程なくして、彼女は部屋だけを残して僕の前から跡形もなく消えてしまった。
行きついた果てには、飲食テナントの入ったビルの裏口があった。大きな換気扇からは、賑やかな光と音、古い油の匂いがした。私はその脇にある錆びた扉の前に立ち、煙草の吸殻を踏みながら、すみれさんの事を考えた。
そして、錆びたドアノブを回し、軋む音を立てながらゆっくりと引いた。その手には、どこか懐かしい感覚が流れ、やがて全身へ回っていった。
扉の先には、そこにあるはずの飲食店とは異なる店があった。オーク材をふんだんに使った重厚なテーブルが並び、古い電球が色褪せた光で室内をぼんやりと照らしている。部屋の隅のレコードは回り続け、聞いたこのない女性ボーカルのバンド曲を流している。客席には、顔と声の存在しない者達が座り込み、じっと何かを考え続けている。どこにでもあるのに、どこにもない部屋。いつでもあるのにいつでもない部屋。ここはそう言う場所だった。
「いらっしゃい」
カウンターの中からそう話すのは、すみれさんだった。50年前と何も変わりのない声や姿がそこにはあった。
「すみれさん」
私はドアを閉めながら言った。
「宮本君、随分大人になったのね」
そう言いながら、彼女は髭を撫でるような仕草をした。短く切り揃えられた黒髪、整った容姿に陶器の様な質感の肌はある種、彫刻のような冷たく静かな美しさがあるけれど、その中はユーモアと茶目っ気のある温かさが満ちている。
「おひさしぶりです。すみれさんは変わりないようで。いつの間にか、歳越えちゃいましたね」
私は笑いながらそう言い、同時にひどく悲しくなった。自分だけが年老いた事実が言葉にした後に重くのしかかったのだ。
「何も変わらないわ。良くも悪くもね。ねぇ、あなた今までどこにいたの?」
「分かりません。彼女が作った世界のどこか、だと思います。そのことに気づいたのはたった今ですけれど。気づくのが遅すぎました。僕はあの世界で、彼女の事なんか何も思い出さず、他人のような人生を何十年も生きてきました。こんな可笑しな話がありますか。一番浮ばれないのは私の死んだ妻と娘ですよ」
私は悔しさと苛立ちを含んだ口調でそう言った。
「分かっていると思うけれど、あの子の作る世界に時間の概念は存在していない。その姿だってあなたが無意識に作り出してるイメージよ」
「そんなことは分かってますよ。それでも、僕には50年以上過ごした感覚がどうしようもない程この身体に染み付いているんです。とてもじゃないが、以前の僕になんて戻れません」
僕がそう言うと、彼女は小さなポットに火をかけた。
「記憶を消したければ消せばいい。その感覚だって消えるだろうし、その姿だって勿論元に戻れると思う。でもそれであなたは、あの子は納得できるの?」
「僕は──」
するとすみれさんは手を前に出した。
「まずは席に掛けて。焦らずゆっくり話しましょう。時間はあるもの」
そう言うと、彼女は笑みを見せた。その姿に、僕はすっかり興奮をそぎ落とされてしまい、深いため息を吐きながら革張りのカウンターチェアに浅く腰かけた。
「何か食べる?」
彼女は食器の整理をしながら言った。
僕の脳裏に浮かんだものは、タマゴハムサンドだった。あの頃、この店に来るたびに食べていたメニューだ。
「タマゴハムサンド」
「たまごは?」
「たっぷりで」
するとすみれさんは嬉しそうな笑みを見せた。
「ちょっと待っててね」
彼女は木皿の上に盛られたゆで卵の一つを取り、細かくカットしてビーカーに入れた。そしてマヨネーズと他いくつかの調味料を混ぜてタマゴサラダを作り、大きな鉄のフライパンでハム2枚をさっと焼いて焦げ目のついたパンにそれらをまとめて挟んだ。
僕はその一連の無駄のない流れをぼんやりと見ながら、ふと呟いた。
「彼女が戻って来たんだと思います」
すると彼女はテーブルにタマゴハムサンドと珈琲の入ったマグを置いた。
「熱い内に」
僕は言われるがままに一口噛り付いた。卵の優しい味に、マスタードの酸味と砂糖の甘味、ハムの塩味が不思議なくらいよく合う。すみれさんの味だった。
「美味しいです。すごく」
「そう言う言葉を貰えるとやっぱり作り甲斐があるわね」
彼女はカウンターに両肘をつきながら言った。
それから僕は淹れたての珈琲を喉に通した。一口飲むだけで、随分と気分が落ち着き、平静を取り戻した。
そんな僕を見ながら、すみれさんは一つ一つの言葉を紡ぐように話した。
「あの子については、私もまだ何も知らない。どういう形になって、どこに存在しているのか。手掛かり一つ見つけられていない。でも、あの世界が残っている限り、彼女は必ず生きている。そしてあなたを呼んでいる。他の誰でもなく、あなたを。だから探してあげて」
「はい」
僕は彼女のサンドウィッチを平らげ、珈琲を飲み干すと、彼女から当時使っていた鞄を受取った。中には瑞々しいリンゴにノートと鉛筆、そしてリルケの詩集が入っていた。
「ほんと、何も変わりませんねここは」
僕は鞄を背負い、再びドアの前に立った。そこにはもう、少年だった僕でも、老人だった私もいなかった。
「すみれさん、また会えますか?」
僕がそう言うと、彼女は笑みを見せた。
「あなたがそれを望むなら」
BGM:J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番 ロ短調 BWV869(J.S.Bach:The Well Tempered Clavier No.1 in B minor, BWV869)