{{ 壹. 談談木吉他伴奏 }}_09
也許因為『吉他』畢竟是西方人的樂器,因此在談到木吉他的伴奏與編曲手法時,例舉西方有名的傑作來學習,似乎是個理所當然的道理;但其實,在民國七〇~八〇年代,當時正在轉型、萌芽的『新』華語流行音樂(相較於這個時期前的民歌年代而言),也有好些個作品,非常值得拿來當做分析、學習的標的,而且,相較於西方的音樂處理手法,也一點兒都不遜色。
說起民國七〇~八〇年代的臺灣音樂樣貌,我覺得真的比起現在,更要來得有實驗性與多元性,就以當時強調音樂原創性的『滾石』,以及以偶像包裝見長的『飛碟』這兩個品牌,在消費性娛樂產業還不是特別發達的那個時空背景,為了爭奪音樂市場的領導地位,而相互競爭所發展出來的差異化商品,在多年之後重新拿來分析研究,其實,蘊藏在每一個作品中的音樂企圖與市場定位,都比後期因為『數字管理』優先的國際唱片公司的市場策略所發展的同質化商品,要來得有趣、更具有人性許多。
特別是早期的滾石唱片,在汲取了西方音樂的養分之後,轉化強調音樂創作人的音樂實力所推出的音樂作品,對於當時還在高中階段的我,完全是充滿震撼力的衝擊;如果說得矯情一些:當年聆聽的西方搖滾音樂,的確豐富了我的音樂想像力,但如果沒有早年滾石那些傑出的音樂人,實實在在地用華語示範了『我們也可以做到這樣』的那種音樂典範,說實話,我是不是真的有勇氣想要投身音樂、去落實、完成那些音樂的想像力,恐怕還是一個巨大的問號。
因為這樣的緣故,我非常希望能在接下來的文字中,列舉出那些深刻影響了、鼓勵了我的傑出華語作品,來表達我對於那個年代的英雄們誠摯的敬意與感謝。
[一. 木吉他伴奏應該要練起來的曲目~華語篇]
曲目1-9 羅大佑-鄉愁四韻 https://www.youtube.com/watch?v=4zBon_tBuOg
這個作品讓我想要表述的是:
1. 且先不論整個音樂的內容,光是欣賞余光中先生的這首詩作,參考這位文學家的時代背景(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E5%85%89%E4%B8%AD ),那種鄉愁的意象,是如何溫柔而又深刻地被刻畫出來;也因此,在早期的民歌時期,另外一位重要的民歌旗手楊弦先生就以這首詩作譜寫過另外一個也非常幽靜深遠的旋律版本,在那個『唱自己的歌』而風起雲湧的民歌創作爆發的年代,留下過另外一個發人深省的跫音。
聽聽看胡德夫先生所演唱的楊弦先生旋律版本: https://www.youtube.com/watch?v=cxvobgiioss
是的!在二十一世紀的臺灣現在,來回朔當年的時空背景,我們的確會感受到一種『黨國色彩』的政治斧鑿,是如何作用在音樂或是其他的藝術領域。但我也很想藉由這個作品,來認真看待那些我們真真切切、一路行來的意識形態的轉換:我們的確就是從那個充滿爭議的政治階段,過渡到了現在這個時代,比較起採用斥責、敵對的方式來回首當年,我寧願用『更認真耕耘現在,以避免未來回首的遺憾』,來為我們的臺灣做出一點務實的貢獻。
也因此,我不得不提出我的觀察:近年來的臺灣詞曲音樂創作,在文字的品味與要求上,似乎不復當年的文采;在先前我所例舉的西洋音樂作品,幾乎每一首的文字都有值得細細品味的文學意涵。這並不是說用語直白或使用淺顯易懂的文字風格就一定不好,但更多的創作例證顯示出,現今的創作力有一種『急於表現』的特徵,許多在我看來,還應該只是『練筆』的文字『習作』,就已經被作者認為是一個『創作』,而迫不及待地希望聽眾、市場,要給予肯定的認同。
我只是想說:『懷才不遇』這個悲劇,千萬不要亂套用在自己身上啊!
2. 在吉他的編曲彈奏方面,現在在網路的資料上多數顯示,這首『鄉愁四韻』的編曲者是羅大佑先生本人;但在我模糊的記憶裡,回想當年曾經認真研究的專輯內頁文字,這應該是一位日本吉他手的編曲、錄製作品。請聽聽看這種『寫意』的編曲概念,完全不在商業音樂的制式規範內;他用了很長的篇幅來醞釀音樂的情緒,讓一把吉他在低音綿長的聲響支撐下,在高音聲部用雙弦的和聲式旋律,來營造一種『只有你能意會』的音樂情境,而五聲音階的旋律組合,也將這種東方式的文學體裁和文字主題,襯托得相得益彰。
而在間奏的樂段,應該就很可以意識到這位編曲家是企圖用吉他來呈現中國的古箏或古琴的琴韻,不論是樂句的建構,或是彈奏的張力上,都有著東方樂器印象中該有的氛圍。在後來的這二、三十年,我聽過一些類似的音樂企圖,以吉他模擬東方樂器的語句或神韻;但我必須說,有太多的類似作品只呈現了一種『摹仿外型』的匠氣,對於音樂內在應該要有的靈動,始終差了一大截,也因此讓這種音樂曲風不太能感動消費者---或許,廣義地來說,這也是一種『把習作當成創作』的狀態吧?
然而,在這首『鄉愁四韻』中,編曲、演奏者很適切地將東方文化的底藴,用西方的樂器表達了出來;對於這首曲子,我認為要把每個音都抓出來其實並不困難,但如果要重現那種情境,恐怕是要花相當的苦功。
而事實上,我並不特別建議一定要苦心孤詣地練起這個作品。有些作品,我們懂得如何去欣賞,其實,對於音樂能力的鍛鍊與提升,還是有很大的助益。也許,就像是張三豐在危急之際傳授『太極拳』的真意給張無忌那樣,張無忌越把招式忘掉,張三豐越覺得張無忌深具悟性。
『意』與『形』的各自作用,在音樂的修為上,也有著相近的意涵。
3. 我在這首曲子第一次聽到運用自然泛音的排列組合所寫出來的樂句,也第一次意識到『手指摩擦琴弦』的聲響,居然也可以是音樂場景的一部份;這影響了我後來在編寫鄭秀文的『至理名言』,以及王菲的『旋木』,都很刻意地摹仿這個『聲響』,做為編曲場景裡一個重要的元素。
以上。
羅大佑先生的前三張專輯:『之乎者也』、『未來的主人翁』以及『家』,對我而言,是華語音樂歷史上難以超越的天險!除了選用名家詩人或臺灣鄉土名謠的少數作品之外,羅大佑先生本人的筆鋒,其實也有自成一格的力度與態度,同時,他的旋律能力,恐怕也是華語音樂群雄中少有的佼佼者!在本文的最後,我想選取羅大佑先生在1982年為電影『野雀高飛』所寫的主題曲『野百合也有春天』來呈現他旋律寫作的傑出;我很榮幸曾經能有機會為臺灣另外一個溫暖的聲音『阿桑』編寫過一個木吉他的版本:https://www.youtube.com/watch?v=x5FeDLJaREU
遺憾的是,阿桑已經離我們而去;而重新聆聽這首羅大佑先生的作品時,不知為何,心中浮現的是另外一個文句:『哲人日以遠,典型在夙昔』…
也許是因為阿桑,
也許是因為羅大佑。
祝各位音樂之路以意馭形。
同時也有1部Youtube影片,追蹤數超過4萬的網紅Battle Field Ver1,也在其Youtube影片中提到,MotoGPでのRC213Vの走りは、2013年からMotoGPに参戦したマルク・マルケスによって確固たるものになったが、マルクマルケスがMotoGPで表彰台に上る以前に、ペドロサらによってその実力は明かされていたようだ。 さらにホンダのMotoGP RC213V以前の歴史を振り返れば、2ストロー...
渡哲也 wiki 在 Allan Lin 的翻譯教室 Facebook 的最讚貼文
電影預告/Trailer : 怒火 (Ikari)
官方網站:http://www.ikari-movie.com/
影片原連結 : https://youtu.be/HhH9MUwv7AY
經過了E3展以後我調作息加上朋友最近剛入手了一台PS4導致我完全無法作業 ((真是罪孽深重
但是還是該認真一下了xD
這部感覺超猛啊!!!
超可怕卡司
------------------卡司------------------
槙 洋平 - 渡辺謙
田中 信吾 - 森山未來
田代 哲也 - 松山ケンイチ
大西 直人 - 綾野剛
小宮山 泉 - 広瀬すず
知念 辰也 - 佐久本宝
北見 壮介 - 三浦貴大
薫 - 高畑充希
藤田 貴子 - 原日出子
明日香 - 池脇千鶴
槙 愛子 - 宮崎あおい
藤田 優馬 - 妻夫木聡
------------------製作人員------------------
監督・脚本 - 李相日
原作 - 吉田修一
音樂 - 坂本龍一
主題曲 - 2CELLOS ※ 作曲は坂本龍一
配給 - 東宝
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① : 裡面說的惡人為六年前 (2010) 由深津繪里與妻夫木聰主演的改編電影
資料來源 : https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A1%E4%BA%BA_(%E5%B0%8F%E8%AA%AA)#.E9.9B.BB.E5.BD.B1
*翻譯任務 十二日目達成*
渡哲也 wiki 在 林岱樺 Facebook 的精選貼文
#反對扭曲歷史 #反對偷渡中國史觀 #反對愚民教育
馬政府無能對抗中國對台灣的侵吞、無能保護人民的公共安全、
無能處理台灣的經濟問題、無能解決食安風暴。
但卻極盡能事地以非法方式竄改歷史、編製統一課綱,
面對排山倒海的質疑,政務官不僅毫無解釋及處理能力,
甚至一再以說謊方式敷衍學生及教師的質疑,
教育部官員帶頭說謊,教育部長以言行來告訴孩子:
大人不僅說謊,還很無賴!
然後動用霹靂小組欺負手無寸鐵的高中生,
讓原本具有榮譽感的治安精銳,成為獨裁者傷害孩子的打手,
成為壓制新聞自由的黑手!
723深夜的教育部,再度成為馬政府惱羞成怒的發洩場所,
相信很多父母及公民又是徹夜難眠,
因為這個民意支持度不到10%的政府,仍然張牙舞爪,
用它最後的一絲力氣向人民挑釁,向民主人權宣戰!
小英主席及各個執政縣市首長的表態,
代表民進黨應該用實際行動來聲援學生,
並遏止教育部的違法行為!
「蔡英文主席及縣市首長聯合聲明」
昨夜,看到高中生自己站出來,用肉身衝撞教育部,來抗議他們使用的教材遭到政治力的扭曲,我們被這股勇氣所感動,同時也覺得慚愧,因為給孩子一個健全的教育環境和客觀的內容,本應是大人的責任。
我們不願意看到這些熱血的孩子們,為了抗議爭議課綱而繼續受到傷害。我們在此提出聯合呼籲:
一、 教育部應宣布立即撤回爭議課綱,現行課綱教材繼續沿用。
二、 教育部應依法完整公佈課綱調整決策過程的資訊及錄音,並追究相關責任。
三、 教育部應尊重學校自主選書權,不得以各種方式迫使採用新課綱教材。
四、 教育部應對此次課綱制定嚴重瑕疵,向社會道歉,並不得向學生提告。
此外,我們鼓勵轄內的學校,沿用沒有爭議的現行課綱,讓政治的干擾遠離教育。
最後,我們要求執政黨,體認到此事的嚴重性,不應放任衝突延續,更不要試圖抹黑學生,讓爭議儘早落幕,讓學生回到校園安心求學。如果馬政府仍舊執迷不悟,那改正爭議課綱、讓教育擺脫政治的干擾,將會是下一任政府的責任。
而我們誓言要扛下這個責任,絕不逃避!
民主進步黨主席 蔡英文
高雄市長 陳 菊
台南市長 賴清德
台中市長 林佳龍
桃園市長 鄭文燦
宜蘭縣長 林聰賢
嘉義縣長 張花冠
基隆市長 林右昌
新竹市長 林智堅
彰化縣長 魏明谷
雲林縣長 李進勇
嘉義市長 涂醒哲
屏東縣長 潘孟安
澎湖縣長 陳光復
Plesry @ Wiki Commons (https://goo.gl/DZ08pR)
CC BY 3.0 (https://goo.gl/YjoWVU)
渡哲也 wiki 在 Battle Field Ver1 Youtube 的最佳貼文
MotoGPでのRC213Vの走りは、2013年からMotoGPに参戦したマルク・マルケスによって確固たるものになったが、マルクマルケスがMotoGPで表彰台に上る以前に、ペドロサらによってその実力は明かされていたようだ。
さらにホンダのMotoGP RC213V以前の歴史を振り返れば、2ストロークエンジンを搭載したNSR500にまでさかのぼって思い起こす必要があるだろう。
NSR500は、2ストローク500ccV型4気筒の競技用のバイクであり、甲高い2ストロークエンジン音を好むバイクファンも多いのではないか。
そしてホンダの技術力を結集したNSR500は、MotoGPRC213Vの時代への布石であり、MotoGPでのマルク・マルケスの活躍を予感させるものであったかもしれない。
NSR500(エヌエスアールごひゃく)は、ホンダ・レーシング(HRC)が開発した、2ストローク500ccV型4気筒エンジンを搭載した競技専用のオートバイである。
初代NSRで140ps、最終的には200psを超えるといわれるまでのパワーを500ccという排気量から発揮した。年々のパワーアップ競争で常にライバルのヤマハやスズキをリードしていたと言われるが、ライダーのコントロール能力を超えるほどのハイパワーは諸刃の剣となる。その課題解決策として1992年に投入されたビッグバン・エンジン(不等間隔位相同爆エンジン)[1]は、その後のGPマシン開発の方向性に大きな影響を与えたエポック・メイキングな技術であった。
1984年から2002年までの19シーズン、HRCからオートバイロードレース世界選手権(WGP)に投入された競技専用車両。NSRとは「New Sprint-racer of Research」の略称とされている。 HRC社内呼称は「NV0(ゼロ)」の後ろにアルファベット順で開発年の順に割り振られている(EやFはエンジン用パーツやフレーム用パーツと混同しやすいので飛ばしている)。例えば、初代NSR500である84年型は「NV0A」 85年型は「NV0B」 86年型は「NV0C」 87年型NSR500は「NV0D」 という具合に「通しアルファベット順」とも言える社内呼称となっている。 ただし例外はあり、89年型NSRはNV0Hだが、翌90年型NSR500は「90NV0H」となっている。 これは、毎年開発年度順に社内で予算が組まれるのだが89年型と90年型がひとつの予算枠で開発された経緯によるもの。 また「NV0O(オー)」も飛ばされているが、これは数字のゼロとアルファベットのオーが紛らわしいという理由である。
4気筒化でパワーのホンダへ
1983年当時、主力マシンであった2ストロークV型3気筒エンジンを搭載したホンダ・NS500は、小型・軽量・低重心を開発の主眼に置き、軽快な旋回性能とすばやい立ち上がり加速を武器に、エースライダーのフレディ・スペンサーを中心としてシーズンを戦っていた。各ラウンド全体を俯瞰してみると、低中速サーキットではマシン開発の目論見どおり、旋回および加速性能を存分に発揮し優勝を含む好成績を収めたが、舞台が高速サーキットやアップダウンの激しいサーキットに移ると、絶対馬力に勝るV型4気筒エンジン搭載のヤマハ・YZR500の後塵を拝する結果となっていた。
そこでホンダは1983年シーズン当初から、将来のグランプリを長いスパンで戦い抜ける性能をもつ新型マシンの開発に着手した。ライバルのYZR500と同等かそれ以上のハイパワー、かつNS500で得た軽量・低重心を兼ね備えたパッケージを持つニューマシン。それがNSR500プロジェクトのスタートであった。
レース戦績
1985 WGP 500(フレディ・スペンサー)
1987 WGP 500(ワイン・ガードナー)
1989 WGP 500(エディ・ローソン)
1994 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1995 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1996 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1997 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1998 WGP 500(マイケル・ドゥーハン)
1999 WGP 500(アレックス・クリビーレ)
2001 WGP 500(バレンティーノ・ロッシ)
主なライダー
フレディ・スペンサー
ワイン・ガードナー
エディ・ローソン
ニール・マッケンジー
マイケル・ドゥーハン
ピエールフランチェスコ・キリ
アレックス・クリビーレ
ルカ・カダローラ
マックス・ビアッジ
ダリル・ビーティー
アレックス・バロス
ロリス・カピロッシ
ロン・ハスラム
アルベルト・プーチ
カルロス・チェカ
ジョン・コシンスキー
バレンティーノ・ロッシ
八代俊二(NSR500の開発に貢献)
加藤大治郎
岡田忠之
伊藤真一(1991年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
木下恵二(1986年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
原田哲也
阿部典史(1993年度全日本選手権500ccクラスチャンピオン)
1984 - 1986年
約1年間の開発期間を経て登場した1984年モデルのTYPE-1は、非常に先進的なレイアウトにまとめ上げられていた。通常はエンジンの真上にある燃料タンクをエンジン下にマウントしているため、排気管をエンジンの上に通すという、独特なレイアウトを採用。重い燃料タンクを車体下部に置いて重心を下げ、燃料の減少による操縦性の変化を抑えようという狙いがあったようである(しかしながら、TYPE-1ではエンジン下の燃料タンク内に仕切り板を設けるなど前輪分布荷重を最後まで乱さない工夫をしていたが、それでもトランスアトランティックカップでのスペンサーの転倒でも判るように実際にはレース終盤になると前輪分布荷重が減り、相対的に後輪荷重が大きくなるという悪癖に悩まされ続けた)。 また、この特徴的なレイアウトによる熱害によるキャブレーション問題と異常なほどの整備性の悪さも重なった。具体的には燃焼ガスによって高温に熱せられる排気チャンバーが吸気を熱してしまうというものだった。 このキャブレーション問題をさらに詳しく言えば、ベルギーのスパ(第9戦)やオーストリアのザルツブルクリンク(第6戦)、ドイツのニュルブルクリンク(第5戦)などの標高の高いサーキットでは空気中の酸素濃度も薄くなるため熱害がさらに深刻になりプラグのカブりも酷くなって本来のパワーが出せないというものだった。 また、整備性の問題はもっと酷かった。 通常であればエンジン上部にある燃料タンクを取り外せばアクセスできるエンジン周りが、排気チャンバーを外さないと整備やセッティング変更ができないのである。 走行直後では、排気チャンバーは排気熱で非常に高温になっており、外すこと自体も困難だったため、キャブレターのジェット変更やプラグ交換、プラグの焼け具合のチェックにひとつにすら苦難が伴う)というメンテナンス性の低さ等々により、TYPE-1の独創的レイアウトは永く採用されなかった。 翌1985年型のTYPE-2以降は燃料タンクがエンジンの上に、そして排気チャンバーはエンジン下を通る一般的なレイアウトに変更された。 心臓部の2ストローク500ccエンジンは、1984年から1986年までシリンダー挟み角90度のV4エンジンで排気チャンバーは前方に伸びるレイアウトでキャブレターは後方2気筒の背後に位置しており、1987年型のTYPE-D以降2002年の最終型まで挟み角112度のV4エンジンで排気チャンバーは前2気筒が前方、後2気筒が後方に伸び、キャブレターはVバンク内に位置するレイアウトとなった。ともに1軸クランクシャフトを採用。当初90度の挟み角で向かい合うシリンダーの間にキャブレターをレイアウトする空間が取れず、後方2気筒の後ろにキャブレターを配置していた。このため後方2気筒の排気ポートを前方に向けて取り回すより他はなく、結果、排気チャンバーがエンジンの下側で複雑に絡み合う状態となっていた。
1992年には、それまでひたすらにハイパワーを追求して他社を引き離すという「馬力至上主義」ともいえる開発方針を転換。ライダーに扱いやすい過渡特性でエンジン出力をタイヤへ導くことに着目した、不等間隔位相同爆方式と呼ばれる技術を採用。この新エンジンは、通称ビッグバン・エンジンと呼ばれ、シーズン序盤から圧倒的な優位性を発揮した。有り余るハイパワーを確実に路面に伝えるため、エンジン出力の過渡特性を改善した技術はこのシーズンを席捲。エース・ドゥーハンは開幕から連勝を重ねることとなる。1990年頃からNSRの開発に発言権を持ち始めたマイケル・ドゥーハンの意見により、ライダーに扱いやすいエンジン特性が重要視され始めた。また、マシンのパッケージに大きな変化を与えず、前年モデルをじっくりと熟成させていく方針もドゥーハンによるところが大きかったといわれる。
1997年シーズンには、このビッグバン・エンジンの技術をベースに、かつての等間隔爆発に近い点火順序を与えたスクリーマー・エンジン仕様のNSRが登場。この新しい試みのエンジンにテストで好感触を得たドゥーハンは、ただひとりスクリーマー・タイプのエンジンを選択。1989年以来、等間隔爆発のハイパワーエンジンで戦った過去の経験が充分に活かされ、このシーズンはドゥーハン単独で12勝をマーク。僚友のアレックス・クリビーレと岡田忠之のビッグバン仕様での勝利も合わせ、コンストラクターとしてシーズン全勝の記録を残す圧倒的な強さを示した。以降1998年から2002年の最終型まで、スクリーマータイプのエンジンが標準仕様となった。
1999年のドゥーハン引退に伴い、開発の方向性を見失って一時期は低迷しかけるが、2001年の大幅な設計変更を受け、イタリアの新鋭バレンティーノ・ロッシがシーズン11勝を挙げチャンピオンを獲得し、再び圧倒的な速さと輝きを取り戻す。2002年、加藤大治郎により最後の活躍を果たし、次世代のニューマシン、4ストローク990ccV型5気筒エンジン搭載のRC-211Vへと主力の座を明け渡した。1983年
初年度から3勝を上げる活躍で開発コンセプトが間違っていなかったことを実証したNS500だが、1983年のタイトル獲得を目指して冬の間に更なる改良が加えられた[23]。改良にあたってはグランプリフル参戦1年目にしてすでにチームのエース格となっていたスペンサーの意見が多く取り入れられ、1983年型NS500は「フレディ・スペシャル」とも言えるマシンとなった[24]。その最も分かりやすい例がエンジンで、もっとパワーが欲しいというスペンサーの要求に応え、もともとパワーバンドが狭かったエンジンを更に高回転型の特性とすることで130psのピークパワーを絞り出し前年型から10ps以上のパワーアップを実現した[25]。その上で、市販車やモトクロッサーですでに実績のあった排気デバイスATAC(オートコントロールド・トルク・アンプリフィケーション・チャンバー)を装着することで低中速域でのトルクを補った[23]。また、とにかくエンジンを回せるだけ回すというスペンサーのライディングスタイルに合わせ、最大パワーを発揮する11,000rpmから更に2,000rpm回せるようにオーバーレブ特性を改良した。
車体関係に関しては外見は大きな変更は見られず、1982年型の正常進化とも言える細かな改良が加えられた。アルミフレームは形状や構成はほとんど変わらないものの中身は全面的に見直された[24]。コーナリング時のタイヤ接地面積の拡大を狙ってリアホイールは18インチから16インチとなり、フロントフォークのインナーチューブはカーボン素材となって更なる軽量化が図られた。
記事引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/ホンダ・NSR500
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